どんな歴史的瞬間にも糞尿はそばにいる
先日、とあるイベントの締めくくりに撮影された集合写真を見る機会がありました。 若い男女が10人ちょっと、イベントの成功を喜ぶ微笑ましい写真です。 でも眺めている内に、昔自分が同じような撮影の瞬間、すぐにでもトイレに行きたいのを堪えて笑顔を作っていたのを思い出しました。 そしてあの時一緒に写った連中や、今見るこの写真の人々も、皆トイレを我慢していたのかも知れない、いやそれ以前に、我慢はしていなくても、当然皆糞尿を体内に持っているんだなあと、変なことを考えました。
いつも糞尿とともに
人間は排泄します。 摂取した食物の残渣、消化器等の老廃物、体内細菌、体液の余剰成分など、不要な物質の排出は身体システムの維持に欠かせません。 消化系に問題が無ければ、誰だって排泄物を蓄え、定期的に排泄しています。
体から排泄物が一切無くなる瞬間というのは、あったとしてもほんの僅かな時間でしょう。 まして多くの人間が集まれば、必ず誰かしら排泄物を抱えています。 だからどんな写真にも映像にも、そこに人間が写る限り、あらゆる瞬間、見えずともそこに糞尿がいるわけです。
あの瞬間も
例えば有名なヤルタ会談のこの写真。
"Yalta summit 1945 with Churchill, Roosevelt, Stalin"The source web page include the following caption: Photo #: USA C-543 (Color). Licensed under Public domain via ウィキメディア・コモンズ.
3人の巨頭はもちろん、背後に写る人々も皆、腹部には排泄物を持っている筈です。 当然ですが、写真のどこにもそんな様子は見えません。 でも全員が歴史的瞬間を伝える写真に、それぞれの想いで臨んでいます。糞尿を抱えながら。
この美しい戴冠式でも。
"The Anointing of Queen Alexandra at the Coronation of Edward VII" by Laurits Tuxen - Royal Collection RCIN 404466; Royal Collection object 404466. Licensed under Public domain via ウィキメディア・コモンズ.
聖職者も、王や王妃も、美しい従者たちも、皆同じ。 でもその存在は欠片も描かれない。
糞尿の汚別
どんなに美しく気高くあっても、人間である以上、糞尿は常に共にある。 しかしそれが美しさや気高さと共に描かれたり写しだされたりすることは、滅多にありません。 というより、むしろ尊いものをとらえるのだから、糞尿が介在できないのかも知れません。
糞尿を描写することへの忌避はそう強いものではないように見えます。 小便小僧は堂々と設置されますし、クソッ!とかshit!などの表現は品がないとされても一般的です。 それらへの言及がマスメディアで禁止されるわけでもなく、図案化したものは子供に大人気です。 なにせ自分限定とはいえ日々定期的に出会うものであり、身近な存在のはず。 しかし尊きものを扱う際には、徹底的に別けられ、一片たりとも臭わせない。
神話には時々糞尿が登場しますが、多くは毒だったり侮蔑だったり、悪しき扱いを受けます。 ウケモチなどハイヌウェレ系なんかだと、素晴らしいものを生み出しても、それに糞尿の経路を用いただけで殺されてしまいます。 神代にも糞尿は汚く忌避されるべきものであり、聖別の対局に置かれているように見えます。
現代の尊きものから引き離されるものとしては、性器や性的露骨さも似た扱いを受けています。 しかしそれらは常に豊穣と密接で、聖別と相容れないわけではない。
常に共にあり、目にすることもある、描かれない身体の一部という意味では、血液も似ているかも知れません。 しかし血の聖性は強く、契として、供物として、代償として、あるいは与え給うた身体の象徴として、尊さとの共存は珍しくありません。 経血はやや忌避されますが、糞尿ほどではない。 中間ぐらいでしょうか。
人間が糞尿、なかでも糞便に抱く諸々は、聖性とは最も遠き所にあって、糞便が示す悪しく汚き性質を削ぎ落したものが聖と言えるのかもしれません。
常に存在し隠し続けられる
美しい人々の美しい瞬間にも、気高い精神が気高い決断を下す瞬間にも、暖かい団欒にも、緊迫した銃撃戦でも、涙を堪え惜しむ恋人たちの別れにも、常に糞尿はそばにいる。 それは人間が生物としての機構を大きく変えない限り続く。 しかし同時に人間の根幹にある糞尿への汚別も続き、聖性が求められるあらゆる瞬間で排除され、突き出されたそれは極大の侮蔑を表し続ける。
こういった糞尿の性質を考えていると、どんな光景を見ても腹部に詰まったものやその量を想像してしまい、ちょっと後悔しています。