『ビルマ・シンガポールの従軍慰安所 (日本語仮訳版) 』を読む(2) 皇国臣民意識

いわゆる慰安婦問題の資料としてだけでなく、読み物としても面白い『ビルマシンガポールの従軍慰安所 (日本語仮訳版) 』。この日記から興味深い箇所を紹介します。

資料原文は以下のサイトから、PDFでもダウンロードできます。 発見者であるソウル大名誉教授の安秉直氏、日本語仮訳版監訳の京都大学大学院の堀和生氏、神戸大学大学院の木村幹氏に感謝。

日記を知った犬鍋さんの記事は以下。

皇国臣民

紹介のはじまりとして、著者が日記に残した皇国臣民としての意識を見てみます。

なお「皇国臣民」としていますが、日記に自身を直接そう称する箇所はありません。 日記を読んでしっくり来たため、犬鍋さんの記事から拝借したものです。

さて、日記だからといって完全に私的なものではなく、後代の目を意識している面があって当然です。 しかしこの日記では実に淡々と日々の出来事ばかりを記しており、読まれる事を想定しているとは考えにくい地味さです。 「~~で起き、朝食を食べた」「遊んだ」と、その中身に全く触れない場合がほとんどで、まるでタイムカードのよう。 何かを伝えようという意思は感じられません。 皆無とは言えないけれど虚栄も誹謗も極薄く、素直な自分用の記録だったのだろうと考えます。

一定の皇民化教育を受け、国外で慰安婦業を営み、ハングル漢字文で綴る。 朝鮮でそこそこの成功していながら、戦時下政策の煽りも遠因にあって落ちぶれ、南国に流れる。 全ての朝鮮出身の人民が同じであった筈はありませんが、ひとつの実例が見えると、やはり強いです。 できれば彼の日記全てだけでなく、同じような品質の他の日記が読んでみたいものです。

そんな彼の、皇国臣民としての意識。 実は日記全編に散りばめられてなどおらず、ほとんどは年末年始の節目にだけ集中しています。

2つの元日

昭和18年1月1日金曜日、晴天、19/21

大東亜聖戦、2度目の昭和18(1943)年の新春を迎え、1億の民草は伏してどうか陛下のご健康であられますことと皇室の末永きご繁栄をお祝い申し上げるところである。私は遠く故郷を離れ、ビルマのアキャブ市慰安所である勘八倶楽部で起きて東の方に宮城に向かって遙拜し、故郷の両親と兄弟、そして妻子のことを思い、幸せを祈った。東天の日差しも分かっているかのように、皇軍の武運長久と国家隆昌を祝福してくれる。どうか今年一年も無事に幸運の中で過ごせるように…。家内の弟と○桓君は慰安婦を連れて連隊本部その他3~4ヶ所に新年挨拶に行って来た。一線陣中で迎えた元日も暮れて夜になり、今年の幸運を夢見て、何日か眠れなく辛かったのだがつい深く寝た。

公開されている日記は昭和18年(1943年)の元日から始まっています。 特別な日だからこそですが、のっけから「大東亜聖戦」「1億の民草は伏して」と、皇国臣民としての自覚溢れる記述です。 元日という節目で想いを馳せるのは、皇国の行く末と、自身の未来。 そして東の宮城、つまり遠く東の皇居を拝む。 「皇軍の武運長久と国家隆昌」という表現からは、日本と併合された朝鮮が既に一体であり認識が感じられます。

しかし日記全体と比べると、皇国や天皇について触れる箇所では、やけに強く固い表現が目立ちます。 原文は漢文的な表現の混ざったハングル漢字混用文らしいので、日本語訳だけが著しく漢字表現を修正しているということはないでしょう。 日記ですらそういった表現を用いるというのは、それだけの畏れが反映されているのでしょうか。

この1年後、日本語仮訳版では2度目であり最後の元日は、更に仰々しい表現が目立ちます。

昭和19年 土曜日、晴天

晨暉、暁曇を破って、海上に日が昇り、ここに昭和19年の春を硝煙の下に迎えた。神武天皇の惟神の大道に遵い、万世不易の国基を定めてから正に2604年、1億民衆は俯伏して陛下の聖壽無窮と皇室の彌栄なることを奉祝するばかりだ。征戦ここに第3年、皇軍必勝の態勢は既に成り、大東亜10億民衆もまたわが国に協力して、共同目標の達成に忠実たり。速やかに姦凶を討滅し、その非望を粉砕し、アジアの解放、世界新秩序の建設を完成して、大訓の聖旨に副奉する。それにより皇威を四海に輝かせなければならない。昭和19年こそ、敵の死命を制圧する決戦の年だ。私は元日早朝7時頃に起きて洗顔をし、精神を整えた後、東天遠く宮城に向かって遥拝し、皇軍の武運長久を祈った。故郷の父母、兄弟、妻子の安在なることも祝願した。南方で年を越すのもこれですでに2回目である。今年こそ幸運に過ごせますように。そしてすべての仕事が計画通りに行くように。私は今年で40歳の半生を送った。歳月は過ぎ、人生は白髪ばかりを生やす。値千金の貴重な歳月を、有意義に過ごしていこう。大山君と菊水倶楽部の主人の西原君の招待を受け、新年の酒肴を満腹まで味わい、楽しく遊んでから、帰路、共栄劇場で映画を観てカトンの宿舎へ帰ってきて寝た。故郷の父母、兄弟、妻子とともに新年を迎えることができず、非常に悲しくて残念である。いつ、家族と一緒に、新年を迎えられるだろうか。

「万世不易の国基を定めてから正に2604年」と皇紀で始まり、力強い讃えの言葉が並びます。 続くのは聖戦を讃え誇り、武運を願う言葉。 正に皇国臣民の鑑のようで、これほどの表現でこのような思いを、元日の日記に綴る朝鮮出身者が市井にいたのは面白いです。 彼は慰安婦業を営んでいた以上、日記に関わらず、現在の韓国では間違いなく非難されるでしょう。 しかしもしも、もっと多くの朝鮮半島出身者が同じような思いだったとしたら、現代の韓国ではどう取り扱われるのでしょうか。 日帝絶対悪を掲げ、日本的なものの否定を育んでしまったことで、時代の連続性は断たれ、矛盾を孕んでしまったように見えます。 自己の一部を否定し続けなければならない、そういう道は、本当に気の毒にです。

さて、淡々とした日記において珍しく激しい記述は、何に根ざすものでしょうか。

日記ではこの前日、つまり昭和18年の大晦日に、その1年を振り返る記述があります。 そこでは日本側のプロパガンダベースとは言え、戦況を詳しく追いかけていたこと、苦戦も知りつつ、それでも日本の勝利を願う心が見えます。 前年は山本五十六が戦死し、アッツなどの玉砕、徴兵年齢引き下げなど、明らかに不穏な戦況が続いている。 皇国の民草なのだという自覚と、その皇国の未来への不安がせめぎ合い、感情が洩れてしまったのでしょう。 またその不安ゆえに、自身の行く末に対しても、より強い嘆きと鼓舞が見えます。

時代のゆらぎ

古い日記が公開されていないため大いに推測ですが、彼はその半生のどこかで、皇国臣民たる自身を自覚したはずです。 元日の強い文言は、臣民としての自覚なしに書けるものではないと思います。 一方で、繰り返される日常の中にはそのような言葉はほとんど無い。 そして後半には、戦況への言及は淡くなり、妻の死を嘆き神を恨む。 船中で迎えた1944年の大晦日には、皇国への言及はたったのひとこともない。

彼は確かに皇国臣民を自覚し、それに相応しい自分も意識していたのでしょうが、将来の不安がそれを揺らがせる程度の自覚でもあったのではないでしょうか。 彼の戦後は日記が公開されておらず、また1945~1950年という激変期の部分が見つかっていないので分かりません。 しかし意外とすんなり、韓国人になれたのではないかと思います。

1905年生まれなので、5歳前後で韓国併合。 独立運動を経て統治が緩やかになり、投資と旧い悪性の排除などで、発展していく故国。 思春期青年期をそういう激変とともに歩み、反発はありながらも日本であることを受け入れ始めていた朝鮮に生きる。 そして事業を興して成功し、挫折。 同時に日中戦争、太平洋戦争と、属す皇国は戦争という方法を選ぶ。 自らは南方へ落ちながら、その戦争が生み出す慰安婦業で糊口をしのぐ。 このままでは駄目なのだと無為の日々を悔み、しかし立ち上がれないでいる。

こういった彼の状況全てが積み重なって、元日には皇国を思い、惨めな自分を奮い立たせるも、荒れる戦況にそれどころでなくなっていく、そういう日々が生まれたのではないでしょうか。

次は、日記の中の遊興を見てみます。